リヴァプール:クロップ監督の哲学的な発言を一つ紹介!自由と責任について

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サッカー

今回はクロップ監督の哲学的な発言に注目し、「自由と責任」、「主観と客観」について論じる。ある試合で、モハメド・サラーがサディオ・マネにボールを出さず、決定機を逃したことがあった。

その後、ベンチに下がったマネはパスを貰えなかったことに腹を立て激昂。チームメイトが彼を宥め、何とか怒りを抑えようとした。確かに、あの時サラーがマネにボールを出していたら1点を取れていた可能性がある。

そのため、パスを出さなかったサラーが”悪い”を言われてしまうのは仕方のないことだ。だが、同時にパスを出すか出さないかはサラーの”自由”だった。

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「多くの人が『パスを出せ、パスを出せ、パスを出せ』というような幾つかの状況において、彼(サラー)はゴールを決めてきた」

「だから、それはプレーヤーの自由だ。ただ、彼らにはパスするか、パスしないかを決断する責任がある」

「誰もが間違った判断をすることもあるだろう。ボールを失ったり、キックミスしたり、チームメートが見えないこともある。ときどきパスを出さなければならないように見えることもある」

「決して味方を無視しているだけではないが、時には味方に合わせるべき判断もある」

「しかし、良いチャレンジとは言い難いが、ストライカーならば、いかなる時もゴールを狙っていくべきだ。もちろん、それは状況次第だがね」

とクロップ監督は語った。注目すべき点は「それはプレーヤーの自由だ。ただ、彼らにはパスするか、パスしないかを決断する責任がある」の部分だ。

よりゴールの可能性がある選択肢(マネにボールを出すこと)を選ぶのか、その可能性の低い選択肢(サラーが自分でシュートを放つこと)を選ぶかは、サラーの”自由“であった。

そして、行為者(サラー)は自身のしたことに”責任”を持たなければならない。行為者本人の下した判断が間違えていたら、彼は責任を取らなければならないというのが責任論だ。

つまり、ここでは「パスを出す”べき”だったのに、パスを出さなかった」ということになり、そうしなかった行為者は責任を追及されてしまう。すべきことをしなかったからだ。

だが、その時サラーは自分でシュートを打つことを選んだ。サラーの主観が現れる形となった。サラーがその時、その行為が正しいと思っていたから、シュートを放ったわけだ。

しかし、客観的に考えると、マネの抗議は正当なことだと認識できるかもしれない。マネにパスを出していたら、ゴールを決められたかもしれないからだ。だが、マネが外した可能性もある。

つまり、科学的な根拠がない限り、これは「もし私が鳥なら、空を飛ぶことができるだろう」のような仮定法になる。ということは、「もしサラーがマネにボールを出していたら、ゴールを決めることができただろう」になり、サラーを批判していた人はある種の”妄想”していることになる。

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「もしサラーがマネにボールを出していたら、ゴールを決めることができただろう」という命題があるなら、同時に「サラーがマネにボールを出したとしても、ゴールを決められなかったかもしれない」という命題も生じる。

マネにボールを出したとしても、結果がどうなるかはわからない。だが、私もあの時サラーはマネにボールを出す”べき“だったと思う。一か八かのプレーはなるべく避ける方が良い。例えば、一か八かの縦パスは恐ろしいものだ。ボールカットされたら、カウンターをくらってしまうからだ。

サッカーでは常に正解に近いプレーをしなければならない。これは他のスポーツでもそうだろう。ゴールというのは、正解を繰り返した先にあるものだ。その過程でミスを犯せば、ゴールには辿り着けない。

だが、その時したことが本当に正解だったかは分からない。後からそのシーンを客観的に見て、マネにボールを出すことが正しかったかもしれないとしても、行為の直前にそれが正しかったかもしれないと認識するのは難しい。そのため、サラーへの批判はやめるべきだ。

我々はサッカーに限らず、人生においても選択を繰り返している。だが、その正解は結果を知らない限りわからないものだ。「”自由”であるなら、”責任”を負わなければならない」と多くの人は理解しているだろう。

空虚な責任論を日本人は好んでいるように思える。なぜなら、日本人は悪者探しが好きだからだ。だが、そんなことをしても何も解決しない。発生した問題を対処しなければ、問題は残ったままだ。

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